遠くて近い、この道は

彼氏が医学部再受験するって言い出した

彼が医者になると言い出した時の話②

「医者になろうかな。真面目に勉強すれば今から医学部再受験して合格する確率も0じゃ無い」

彼はそんな風に言い出した。

私は何と答えたかは覚えてないけど、とにかく、「はあ、そうですか」、と思った。

 

彼は偏差値の高い大学を卒業してはいたが、その大学は文系だったし、高校生のときも文系だったはずだ。私たちはもう20代後半に差し掛かっていたから受験を経験してから随分長い時間が経っていた。

それでも私が、そうですか、としか思わなかったのは、一つには、彼のそういう突拍子も無い言動にもう慣れっこになってしまっていたということがある。映画を撮ると言い出したときも、突然だった。映画監督として成功することと、医者になるということ、どちらが難しいのかは私にはわからなかった。多分映画監督として有名な人は医者よりはるかに少ないので、映画監督になる方が難しいはずだけれど、その時の彼の年齢だとか色々な条件を考えると、医者になるというのは十分に突拍子も無い発言だった。

その晩、それ以上医者になることについて彼は多くは話さなかった気もするが、父親の話と、医者には昔からなりたいと思っていた、というようなことを話してた気がする。

とにかく、そんな彼の告白を聞いた晩は、おい、医者になりたかったなんて初めて聞いたぞと思いつつも、特に私は動揺もしてなかった。

 

が、やはり日を追うごとに、彼はどの程度本気なのだろうかと思うようになった。本気で医者になるつもりなのか、そりゃ、なれればいいけれど、何年も勉強して結局なれなかったらどうするのか、またアルバイト生活に戻るのか、私は不安になった。

でもそのときすでに私もわかっていた。あの人はあの人の思うままにしか行動しないのだと。彼はそういう人間なのだ。人の意見に耳を貸さないわけでは無いが、大事なことであればあるほど、頑固に自分の意見を曲げないし、やってみたいと思ったことをやらずに済ませることができない人なのだ。頑固者の度合いが私とは全然違う人なのだ。

 

多分私は、彼の医者になりたいという言葉に対して、止めときなよ、とは一度も言わなかったはずだ。それは彼が映画を撮ると言い出したときもそうだったと思う。

 

もう一つ、私があまり動揺しなかった理由として、私が彼にアルバイトを辞めてほしいと思っていたことがある。

彼はまともに就職活動をしないまま大学を卒業して、アルバイトをしていた。アルバイトは肉体労働で、基本的には泊まりの仕事だった。

その仕事場にはたくさんの変わった人たちがいるという話を彼から聞かされていた。変わった経歴の人が多く、バンドマンやトラックメイカー、作家志望の人がいるということだった。同僚の半分近くが外国人だとも言っていた。

彼はその人たちにも映画に協力してもらっていたから、私も何人か会ったことがある。私が会った人たちは本当に面白くて、こんな大人がいるんだ、と思った。

でも、私は彼がそこで働き続けることには反対だった。アルバイトという身分だし、いつ身体を壊すかもわからない環境だった。長く働き続けるにはあまりにも希望がない場所だと感じていた。仕事は大変そうで、彼はいつも疲れて眠そうな顔をしていた。

私は彼に何度も別の仕事を探して正社員として就職してほしいと何度も言っていた。その度に彼はいい加減に話をはぐらかしていた。

 

彼が医者になると言い出したとき、私は彼がそのアルバイトを辞めてくれることが嬉しかった。彼が医者になれるという確信があったわけではないけれど。

 

 

彼は医者になろうと思うと言った後、少しホッとした様子だった。

あの日、彼がなぜあんなに怒っていたのか、イライラしていたのか、今考えてみれば少しはわかる。私が怒鳴られたことに納得はしていないけれど。

仕事の疲れと、焦りが彼をそうさせていたのだろう。